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「S」指標の時代-日本版ディーセントワーク8指標の提案(水口教授のESG通信)

記事公開日 2022/8/30 16:00 最終更新日 2022/8/30 16:00 SDGs ESG研究所 水口剛 サステナブル 生物多様性 人的資本 ESG

今、人材や人的資本への関心が高まっている。だが、人的資本の供給源は社会である。社会の力が弱まれば、社会全体の将来が危ない。たとえば少子化は人的資本の供給を絞り、経済格差の拡大は教育を阻害する。ジェンダー不平等がそれらを助長する。いずれもESGの「S(社会)」に関わる課題である。脱炭素や生物多様性などのE(環境)の議論は進んできたが、Sにも注目が必要だ。おりしも、日本でSに関する指標を検討してきたESG-S指標調査研究委員会(以下、S指標委員会と略す)が、2022年5月に「日本版ディーセントワーク8指標(JD8)」の原案を公表した。同委員会での議論を参考に、日本全体のサステナビリティに直結するSの課題について考えていくことにしたい。

なお、本稿はS指標委員会での議論に多くを依拠しているが、意見にわたる部分は筆者個人の見解であり、委員会としての意見ではない。

■1.3人の衝撃

2022年6月、厚生労働省は合計特殊出生率(1人の女性が生涯に産む子供の数)が6年連続で低下し、2021年は1.3人だったことを公表した。長期的に見て日本が文字通りサステナブルでないことは明らかだ。もっとも、出生率は議論するのが難しいテーマでもある。ミクロで見れば、子供を産むかどうかは個人の自由だし、産みたいと思っても産まれないなど、さまざまな事情があり得るからである。しかも日本の出生率の低下は今に始まったことではない。また、それは日本だけの現象ではなく、先進国に共通の課題でもある。

だが、出生率は純粋に個人の選択だけの問題ではなく、子供を持ち、育てたいと思える社会かどうか、といった社会の構造的要因や政策的要因にも左右される。実際、同じ先進国の中でも、国によって出生率にはかなりの違いがある(1)。そこには、国による子育て支援策などの違いが関係すると同時に、企業の雇用慣行や働き方の違いも影響しているのではないか。

生物多様性に関わる情報開示の枠組みを検討しているTNFDでは、企業活動の自然資本に対する依存(dependency)と影響(impact)というフレームワークを示しているが、人的資本に関しても、企業活動はそれに依存する一方で、影響も与えるという二面性が考えられる。企業の雇用慣行や働き方は、家庭での「ケア」のあり方と関わるからである。

■人はケアを必要とする存在

日本企業の正社員の特徴の1つは、企業拘束性の高さにあると言われる。労働時間が長く、職務や勤務地が限定されないという意味である。一方で私たちの生活では家事、育児、介護など「ケア」を担う人が要る。正社員の拘束性が高すぎるとケアを担う人は正社員になりづらい。日本では女性がケアを担うケースが多く、結果として女性は非正規雇用の割合が高い。たとえば2021年の非正規雇用の割合は、15歳から64歳までの平均で男性は16.7%であるのに対して、女性は50.8%である(2)。

しかも正社員の拘束性の高さは、雇用管理区分間での賃金格差を正当化する論理とされてきた。実際、下の図1に示すように正社員と正社員以外(非正規雇用)の賃金の格差は年齢とともに拡大する。つまり日本の労働市場では、拘束度が高く処遇の高い働き方と、拘束度は低いが処遇も低い働き方に選択肢が二極化している。そのため処遇の高い働き方と家族のケアが両立しにくい構造がある。たとえば相対的貧困率(等価可処分所得の全人口の中央値の半分未満の所得しか得ていない人の割合)に着目すると、社会全体では2018年に15.4%と、2012年の16.1%からやや改善しているが、一人親世帯に限れば48.1%とほぼ2人に1人が相対的貧困状態であり(3)、先進国の中で最低クラスである。貧困や経済的不平等の背景には正社員の働き方という構造的問題があるのである。

図1 雇用形態別、男女別、年齢階層別賃金

※図1 雇用形態別、男女別、年齢階層別賃金

出所:厚生労働省(2022年)『令和3年賃金構造基本統計調査結果の概況』

雇用管理区分間での処遇の違いは研修などの人への投資にも表れる。日本は全体的に見ても人への投資が少ないと言われ、それ自体問題だが、特に非正規社員への教育投資は少ない(4)。それは男女合計で全体の32.7%を占める非正規の従業員を「能力の発揮主体」すなわち企業の戦力としてとらえていないということを意味する。これでは、日本の人材は枯渇するばかりである。

■JD8とは何か

以上のような問題意識を背景に、サプライチェーンにおける強制労働や外国人技能実習生問題、心の健康などの課題にも目を向けて、雇用と働き方に関わる8つの指標を抽出し、「日本版ディーセントワーク8指標(JD8)」として提案した。以下の表にその全体像を示す。より具体的には、8指標を細分化して12の中核指標と13の補完指標としている。

表 日本版ディーセントワーク8指標(JD8)

※表 日本版ディーセントワーク8指標(JD8)

出所:『日本版ディーセントワーク8指標』(ESG-S指標に関する調査研究委員会)より抜粋

指標1では正規、非正規や地域限定社員などの雇用管理区分別の労働時間と賃金を取り上げ、指標2で男女の格差に着目した。指標3はケアを可能にする柔軟な働き方の状況を、指標5では研修などの人的資本への投資を取り上げた。指標4は職場の安心である。労働災害の防止などの安全衛生ももちろん重要な課題だが、ここでは近年特に問題となっているメンタルヘルスや心理的安全性に焦点を当てた。

指標6ではジェンダー以外のダイバーシティ&インクルージョンに着目し、障害者雇用、外国人労働者、性的マイノリティとともに中途採用比率を取り上げた。新卒一括採用が主流の日本企業では中途採用もダイバーシティを高める。また、雇用流動性が低く、いったん勤めると辞めにくいことが企業拘束性と関わっているとの指摘もある。もっとも、単に退職者が多いために中途採用も多いというケースも考えらえるので、平均勤続年数を同時に確認することとした。

指標7ではサプライチェーンに目を向け、強制労働等を防止する人権デューデリジェンスや下請け企業との関係などを取り上げた。外国人技能実習生の問題もここに含まれる。指標8では労働組合の状況などを含む健全な労使関係に注目している。

この種の提案に対しては、「また新しい指標か」という反応もあるかもしれない。ESG評価機関の調査や気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)提言への対応、TNFDの登場などで「開示疲れ」という言葉も聞かれる。乱立する指標を集約するために国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)ができたのではないのか。

だがS指標委員会の事務局が確認したところ、JD8の12の中核指標のうち5つはダウ・ジョーンズ・サステナビリティ・インデックス(DJSI)の調査項目と重なっている。また、2022年6月に厚生労働省が女性活躍推進法の枠組みの中で男女の賃金格差の開示を求めることを決めたように、法令で開示が求められる項目もある。つまりJD8は新たな開示負担を求める指標ばかりではない。むしろその指標の多くは、既存の数多くのS指標の中から日本の文脈に照らして特に重要なものを抽出し、焦点を絞ったものであり、なぜそれが重要なのかという論理を明らかにしたものと言える。

JD8は民間の研究会からの提案なので、強制力があるわけではなく、これがそのまま制度になるという性質のものではない。今後、サステナビリティ基準委員会(SSBJ)をはじめとする制度化の議論に反映されることを期待したいが、それ以上に重要なことは、企業と投資家がともにこの問題提起を重要なものと受け止め、その考え方が企業行動や投資行動の中に織り込まれていくことではないだろうか。

なおJD8の内容は、本稿執筆時点では中間発表の段階であり、今後、企業や投資家等との対話もふまえて修正される可能性がある。

■なぜ、どのようにJD8を使うか

一見してわかるように、JD8の各指標は大きいほどよい、小さいほどよいといった単純な評価になじまないものが多い。だからこそ、単に開示して終わりということではなく、数値の背後にある理由や取組み、過去の推移等も踏まえて企業と投資家の対話がなされることが望ましい。一方、この考え方が市場に織り込まれ、社会全体の行動変容が進むためには、結果が評価されることも必要だ。その意味では、JD8の中からさらに代表的な指標を抽出して評価し、インデックス化して投資するといった使い方にも期待したい。

ではなぜ投資家はそうすべきなのか。まず、労働力人口が減少する一方、産業構造の変化を背景に、価値創造の源泉が物的資本から情報や人材などに移行しつつあると言われる。リスキリングや人的資本の開示に関心が集まるのはそのためであろう。JD8は、企業の働きやすさと働きがいを高めるような行動変容を促す指標となっており、それが結果として優秀な従業員を引きつけ、その意欲を高めることにつながる。つまりJD8は長期的に見て企業価値の向上と整合する。人的資本の多寡や強さといったアウトカムを直接測ることも重要だが、行動変容がなければアウトカムは生まれないので、行動変容につながる指標が重要なのである。

一方、冒頭で述べた通り、人的資本の供給源は社会である。社会が全体として人を生かす仕組みになり、人的資本の豊かな社会にならなければ、限られた資源の取り合いに陥り、限界がある。特に、多数の銘柄に幅広く投資するユニバーサルオーナーの立場からは、経済活動の基盤を守ることに意味がある。図2にJD8の8指標がどのように社会全体の構造変化を促すかという道筋の仮説(Theory of Change)を示した。図のゴールに示した「誰もが尊重され、安心して働ける社会」というSの課題と、企業価値向上につながる人的資本の議論は別のことと思われがちだが、実は表裏の関係にあるのではないか。この点に、投資家がJD8を利用すべきもう1つの理由があると考えられる。これを機に日本がSの面でのサステナビリティを回復することを願っている。

(QUICK ESG研究所 特別研究員 水口 剛)

図2 JD8のTheory of Change

※図2 JD8のTheory of Change

出所:『日本版ディーセントワーク8指標』(ESG-S指標に関する調査研究委員会)より抜粋

謝辞

本稿はESG-S指標調査研究委員会での議論に多くを依拠している。委員会を通じて多くの貴重な示唆を頂いた委員及び共同事務局の皆様に謝意を表したい。なお、同委員会の委員及び共同事務局のメンバーは以下の通りである。

※ESG-S指標に関する調査研究委員会

<注>

  1. 内閣府の『令和4年版少子化社会対策白書』によれば、フランスやスウェーデンでは2000年代後半に2.0前後まで回復し、その後再び低下しているが、2020年時点でそれぞれ1.82、1.66と、日本よりかなり高い。
  2. 総務省統計局(2022年2月1日)『労働力調査(基本集計)2021年(令和3年)平均結果の要約』より。
  3. 厚生労働省(2020年7月17日)『2019年 国民生活基礎調査の概況』より。
  4. 厚生労働省資料『「非正規雇用」の現状と課題』(https://www.mhlw.go.jp/content/000830221.pdf)によれば、正社員以外に教育訓練を実施している事業所は、計画的なOJT、OFF-JTのいずれも、正社員の半数に満たない。

 


水口 剛(みずぐち たけし)高崎経済大学 副学長 経済学部教授、QUICK ESG研究所 特別研究員
1984年筑波大学卒業。博士(経営学:明治大学)。商社、監査法人等の勤務を経て、97年高崎経済大学経済学部講師。2008年より教授、17年より副学長。専門は責任投資、非財務情報開示。環境省・グリーンボンドに関する検討会座長、ESG金融懇談会委員等を歴任。2020年からESG金融ハイレベルパネルが設置したインパクト投資タスクフォースの座長を務める。  主な著書に『ESG投資-新しい資本主義のかたち』(日本経済新聞出版社)、 『責任ある投資-資金の流れで未来を変える』(岩波書店)、 『サステナブルファイナンスの時代-ESG/SDGsと債券市場』(金融財政事情 研究会)など。

<金融用語>

ESGとは

ESGは環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)の頭文字をつなげた言葉で、「責任投資」における重大な課題を指す。 PRIや日本版スチュワードシップ・コードでも、サステナビリティーと長期的な企業価値向上を求める中で、考慮すべき要素としている。 ESGの具体的な項目は、国連や国際機関が議論してきたグローバルな課題を基礎的な枠組みとしており、企業のビジネス活動における持続可能性への取り組みの枠組みである国連グローバル・コンパクトの10原則と近いものが多い。 ESGを考慮した投資(ESG投資または責任投資)は、「社会貢献」を評価する従来のSRIとは異なり、企業が長期的に業績を伸ばす結果としてリターンを生むことを目指す「受託者責任」を明示するものである。その利益を生むために、まず社会から要請される課題への対応を果たし、それによって事業におけるリスクを軽減できる体質を持つこと、さらに本業での価値創造が実現されるシナリオを描けることなどが評価の尺度となる。(QUICK ESG研究所)

著者名

QUICK ESG研究所 特別研究員 水口 剛


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